荒巻義雄公式WEBサイト

トップ > 「荒巻義雄の世界」展報告書 > 企画の詳報:b 開催記念パネル・ディスカッション「荒巻SFの原点を語る」

5「荒巻義雄の世界」展 企画の紹介と詳報

B 企画の詳報


b 開催記念パネル・ディスカッション「荒巻SFの原点を語る」

2014年2月11日 午後2時~午後4時
北海道立文学館地下講堂
聴衆 約80人

パネリスト 荒巻義雄(作家)
      巽 孝之(SF批評家、慶應義塾大学教授)=司会
      小谷真理(SF&ファンタジー評論家、明治大学客員教授)
      タヤンディエー・ドゥニ(日本SF研究家、立命館大学講師・現准教授)
      立原透耶(作家)
      三浦祐嗣(「荒巻義雄の世界」展実行委員、SF研究家)

三浦 本日は、雪が降り、足元が悪い中、たくさんの方にお集まりいただき、ありがとうございました。「荒巻義雄の世界」展は2月8日に始まりましたが、本日はそのイベントとして「荒巻SFの原点を語る」というパネル・ディスカッションを企画いたしました。私は、この企画を立てた三浦と申します。この後は、慶應義塾大学教授の巽孝之さんに司会をお願いします。よろしくお願いします。

 巽孝之でございます。今日の企画は、「荒巻義雄の世界」展実行委員の三浦さんが仕切っておられるのですが、なぜこういう役割分担になっているかというと、今日のパネル・ディスカッションは盛りだくさんでございまして、多彩なスライドショウも用意しております。三浦さんは画像担当ということで、私が司会を承っているわけです。

 本日は「荒巻SFの原点を語る」ということで、荒巻さんご本人にもおいでいただいていますが、早速パネリストを紹介します。まず、SF評論家の小谷真理さん(拍手)。続いて、フランスから来られて、日本語で書いた荒巻義雄論で日本SF評論賞の選考委員特別賞を受け、立命館大学の講師をされているタヤンディエー・ドゥニさん(拍手)。それから、昔は北海道のSF作家といえば荒巻さんだけという時代が長かったわけですが、今は、この会場に来られている児島冬樹さん、笹本祐一さんといった作家がおられます。そのお1人で、SF、ファンタジー、さらにホラーも得意にされている作家の立原透耶さん(拍手)。

 さて、このところ、荒巻義雄さんを再評価する動きが出てきています。荒巻さんは正確に言うと、日本SFの第1世代と第2世代の真ん中くらいの方ですが、日本SFの草創期からずっと創作、評論活動を続けてこられました。最初は、ニュー・ウェーブの影響を受けたスペキュラティブ・フィクション、つまり思弁小説が多かったのですが、その後、ハードSF、伝奇ロマン、冒険小説と、さまざまのジャンルの小説をお書きになってきました。1980年代以降は、作品が英訳されて国際的な評価を得ています。そうした流れの中で、ここ4、5年、タヤンディエーさんのように、荒巻作品を評論の素材にする方も増えています。今日、会場に来ておられる藤元登四郎さんや安田圭一さんも、本格的な荒巻義雄論を書かれていますし、いまのSFを考えることと荒巻義雄さんを再評価することは、絶妙に重なっている気がします。

 私自身は、かれこれ45年ほど前の中学生のときから、まだアマチュアだった荒巻さんにファンレターを書いたり、自分の同人誌に寄稿してもらったりしていましたから、1人の作家がデビューして、山野・荒巻論争や柴野・荒巻論争などさまざまの論争を経て自分のスタイルを確実につくっていき、90年代には架空戦記シリーズで大ベストセラー作家になられ、<ニューヨークタイムズ>にも取り上げられる、という展開を同時代で見てきました。これは、かけがえのない体験だったと思います。昨年2013年、私や三浦さんが一緒に出している『SFファンジン』という同人誌で荒巻義雄特集を組んだ時にも、「荒巻義雄という人は、欧米の作家なら2人、3人でやる仕事を、1人で兼ねていた人」という意見がありました。とにかく、恐ろしいほどのレパートリーの広さを持っています。  では、三浦さんが用意した写真を見ながら、荒巻さんご自身にお尋ねしたいと思います。最初は、幼少期の写真ですね(写真5-13)

荒巻 左の方の美少年がぼくです(笑)。右はぼくの兄貴で、もう亡くなりましたが、専修大学の教授で海岸工学を専攻していました。妹もいましたが幼いころに亡くなり、兄弟2人で育ちました。

 ご出身は小樽ですね。小樽に育たれたということの、後のSFへの影響を語っていただけますか。

荒巻 これは、小学校の時の写真です(写真5-14)。小樽では、稲穂小学校に通っていました。稲穂小学校は、確か石原慎太郎さんや伊藤整さんも通っていたはずです。これ(写真の女性)は、うちの母と幼稚園の山内先生。うちは砕石事業をやっていましたが、母が世話好きでいろいろな人が出入りしていました。

 これは、手稲山でのスキーの写真です(写真5-15)。ぼくは、けっこうスキーがうまかったのです。当時は物がなかったので、スキーにアザラシの皮を張り、テントも自作しました。シュラフザックも、羽根布団を自分でミシンで縫ってつくりました。

 小樽時代では、家業で砕石場をやっておられたことが非常に重要ですね。後に『時の葦舟』などの作品にも、砕石機のモチーフが登場します。やっぱり小樽には、SFの原風景みたいなものがあったのでしょうか。

荒巻 小樽についてひとこと言いますと、昨年(2013年)、小樽美術館と小樽文学館で、シュールレアリスム評論の権威の瀧口修造さんの展覧会がありました。その時、初めて知ったのですが、瀧口さんのお姉さんが、関東大震災のころから稲穂小学校の近くで文房具店をやっていた。で、瀧口さんがシュールレアリスムの発想に至ったのは、小樽の蘭島だったというのです。小樽といえば、『幻詩狩り』というシュールレアリスムSFの傑作を書いた川又千秋さんも小樽の生まれです。ぼくもシュールレアリスムだし、小樽というのはシュールレアリスムと関係がある土地ですね。いろいろ考えると、港町で外国人が来る。外の世界への憧れとか、そういう環境がシュールレアリストをつくるのかな。不思議な感じがしますね。

 次は、札幌南高の同級生との写真です(写真5-16)。これは長編の『白き日旅立てば不死』と非常に関わりのある写真ですね。

荒巻 前列右から2人目が加清純子さん。渡辺淳一さんが小説などに何度も書かれていますが、同級生でした。実は卒業する年に、彼女が突然うちにやって来て、「地学の単位が足りないので、レポートを書いてくれ」って言うので、一晩でレポートを書いてあげました。で、大学受験のために上京して、帰ってきたら「行方不明だ」って。4月になって、阿寒の雪の中で遺体で見つかった。

 荒巻さんは、後ろの左端ですね。

荒巻 そうです。ぼくらは男女共学のはしりだったから、初めて女性が隣に座った経験をした純情な世代です。

 それから、早大に進学された。

荒巻 早稲田の心理学です。女学生がいっぱいいました。

三浦 好みの女性がおられたそうですが。

荒巻 まだ生きているから、言わないことにしています(笑)

 一気に飛びますが、次は荒巻さんがかかわられた北海道で初めてのSF同人誌『CORE』創刊号の表紙です(写真5-17)。創刊号から見ていくと、最初は渡辺博さんが編集をされていましたが、途中で荒巻さんが編集長をされるようになりましたね。最後の方になると、荒巻さんがお書きになったものが誌面の半分くらい占めるようになる。1965年から67年まで刊行されましたが、荒巻さんは『CORE』を拠点にして、SFファンダムの中で、どちらかというと評論家として活躍されていく。『CORE』には、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』を取り上げた「オーバーロードと悪魔」という大変優れた評論や、後の架空戦記につながるフィリップ・K・ディックの『高い城の男』論が掲載されていますが、いずれも単行本未収録ですね。

荒巻 「東海道戦争」論も書きました。

 そうそう。それを読んだ筒井康隆さんから手紙が来たとか。

荒巻 そうです。筒井さんはぼくの恩人です。筒井さんのおかげで作家になれた。

 創刊号に魚澄昇太郎名義で書かれた「しみ」という作品が載っていますが、これのコンセプトは後の商業誌デビュー作「大いなる正午」につながりますね(写真5-18)

荒巻 異次元もののはしりで、これが、ぼくの初めてのSFです。

 短い作品ですが、ここに荒巻さんの小説家としての原点がある。小説も評論も、まさに、小樽とともに、『CORE』に荒巻さんの原点があると言っていいかと思います。

荒巻 「東海道戦争」は疑似イベントテーマの小説です。その後の筒井さんの傾向を代表する作品ですね。

 『CORE』に掲載された評論は、日本における本格的SF批評の原型といってよく、大変に重要です。

荒巻 次は、筒井さんとの写真で、中央公論社の新社屋落成記念パーティーの時のスナップです(写真5-19)。筒井さんとぼくは密約があって、それぞれ書いたものを、お互いに勝手に使っていいことになっています。そういえば、みなさん、筒井さんのブログをご存知ですか。ここに掲載されている筒井さんの日記が面白い。ぜひ読んでみてください。

 筒井さんと荒巻さんが一緒に解説を書かれている『実験小説傑作選』というすばらしいアンソロジーもありますね。

 さて、荒巻さんは1970年に『SFマガジン』で商業誌デビューされるわけですが、その前に、柴野拓美さんが主宰されていた日本初のSF同人誌『宇宙塵』にいろいろお書きになっていますね(写真5-20)。評論では「アメリカSF論」というSFを中心にしたアメリカ文学論を連載しておられたし、小説では「柔らかい時計」や、商業誌デビュー作「大いなる正午」の原型となった「時の波堤」が掲載されています。

荒巻 巽さんは高校生のころ「アメリカSF論」を読んで、相当影響を受けたようですね。

 はい、いまのわたしが専攻するアメリカ文学思想史の基礎になっています。

荒巻 当時は資料がまったくないので、いろいろな所から引用して自分なりに考えて書きましたが、これも単行本未収録かな。

 この中に、評論の商業誌デビュー作「術の小説論」に発展する理論も埋め込まれています。『宇宙塵』にも、初期荒巻義雄の原点がいっぱいありますね。また、柴野さんとの関係では、柴野・荒巻論争がありました。そういえば、この展覧会には『宇宙塵』が展示されていませんね(笑)

荒巻 「アメリカSF論」を書いたのは、かつて日本と戦ったアメリカを理解したいという意味もありました。これが後に『紺碧の艦隊』『旭日の艦隊』につながっていくのかな、という気もします。

 「大いなる正午」の原型となった「時の波堤」などは高次元を舞台に土木技術が展開されるハードSFですが、これこそ英国系のニュー・ウェーブとかフランス系のヌーヴォー・ロマンを初めて日本SFの文脈に定着させた作品という印象を受けました。

荒巻 「時の波堤」は、ぼくの親友で北海道教育大学の教授だった伊藤隆一さんの自宅の建築現場の見張り小屋で書きました。津波のように押し寄せる時間の侵略を食い止めるために、4次元の海に防波堤を造るという話です。当時、地方でデビューするためには、これくらいのものを書かないと認めてもらえないのですね。で、誰にも分からない小説を書いてやろうと思いました。「よくまあ、こんなものを書いたな」と自分でも思いますが、非常に思い入れのある作品です。筒井さんには「(難解すぎて)荒巻さんも分からないんじゃないか」と言われましたけど(笑)

 筒井さんは、「これを読み直すと頭がガンガンする」と言っておられます。『時の波堤』はニーチェから出発していますが、その後の「ビッグ・ウォーズ」シリーズも一貫してニーチェです。『時の波堤』も原点として外せませんね。

荒巻 「哲学マンガ」と言われたこともありますが。

 『SFマガジン』には1970年、評論の「術の小説論」でデビューされましたね(写真5-21)

荒巻 ちょうど、編集長が福島正実さんから森優さんに代わった時期でした。福島さんの時に原稿を突き返されて、「なにくそ」って書いたのが掲載されました。森さんは福島さんとは別の路線で、新しい書き手を探していた時期でね。この評論は、カントの『判断力批判』を基にしていますが、要は、医者が病気を治すように、社会の病気を治していくのがSFだということです。ぼくは、その後も一貫して、すべての小説をこの「術の小説論」で書いています。問題を自分に突きつけて、それをいかに解決していくか、ということです。

 その後、やはり『SFマガジン』に、今度は「大いなる正午」で小説家デビューされました(写真5-22)

荒巻 ぼくは、運も良かった。森さんがいたのでデビューできました。編集者に見出されるかどうかで、作家になれるかどうか決まる面もありますね。ぼくは、いわゆる「裏口入学」。賞も何もとらずに、原稿を送ったらいきなり掲載されて作家になっちゃった。でも、新しいことを始めた方がデビューしやすいということはありますね。

 最初の短編集が『白壁の文字は夕陽に映える』(写真5-23)。この表題作で星雲賞を受賞されました。

荒巻 そうそう。「EZOCON」(1973年の第12回日本SF大会)で、賞をいただきました。フランスのグルノーブルの精神病院を舞台にした、超能力者のSFです。このような初期の作品がぼくのすべてです。なんでこんな作品が書けたのか、ここで言ってしまいますと、ぼくは心理学専攻の学生の時、ある精神病院でLSDの実験の被験者のアルバイトをしました。その体験がものすごくて、そのフラッシュ・バックがこの時起きたのですね。世界の剥離感ともいうべき感覚です。その世界が、これらの初期の作品になりました。

 その後、さらなる代表作の『神聖代』(写真5-24)が生まれるのですが、『神聖代』だとボッシュ、さらにほかの初期作品でも、ダリやマグリットなどの超現実絵画を成り立たせている世界律にSF性を見出しておられる。

荒巻 ぼくは、ダリの「柔らかい時計」のように、現実でなくて絵画の中の世界に入っていって、その世界があることにして小説を書いています。『神聖代』だと、摩周湖のマリモのような星があって、その中にボッシュの「快楽の園」のような世界が広がっているという設定です。この小説に行き詰まっていた時、ちょうど父が亡くなりました。それで、結末を書くことができた。作家というのは、父や母のような重要な人が亡くなるような経験と引き換えに、結末が書けるというようなことがあるのですね。中国人の日本文学研究者にも、ぼくの小説は日本では珍しく父性原理で書かれていると言われたことがありますが、『神聖代』は、確かに父を書いた小説です。

 『神聖代』は、荒巻さんのスペキュラティブ・フィクションの集大成ですが、いま、ミネソタ大学出版局で刊行されている日本SFのシリーズの1冊として、早ければ来年(2015年)にも刊行される予定です。

荒巻 川又千秋さんの『幻詩狩り』が、昨年英訳されていますね。既に日本では絶版になっているけど、アンドレ・ブルトンが主人公の大傑作です。

 荒巻さんの初期の作品も絶版になっていますから、これから逆輸入の時代になるかもしれない。日本語の原著は読めないけど、英訳の本は読める(笑)  この写真が『神聖代』の出版をお祝いするパーティーですね(写真5-25)。小松左京さんも星新一さんもいるし、矢野徹さんもいる。

荒巻 小松さん、星さん、矢野さん、いちばん左は平井和正さん。銀座の第一ホテルでのパーティーですね。

 『神聖代』が日本SF作家クラブでも高い評価を得たことが、よくわかります。このころは矢野徹さんが第2代会長、眉村卓さんが第4代事務局長を務めていた時代ではなかったでしょうか。次の写真は、伝奇シリーズ。

荒巻 これは「空白シリーズ」(写真5-26)。祥伝社ですね。初め、祥伝社から電話が来た時、ぼくは土建屋をやっていたものだから「電器屋さんですか」と聞いたら出版社だった(笑)。伊賀弘三良さんという、光文社をやめて祥伝社をつくった名編集者に頼まれました。このシリーズの第1作が『空白の十字架』で、冒頭、道南の千軒岳にUFOが出てくる。結局、8巻書きましたが、けっこう売れました。朝日新聞にけっこう大きな広告が出てね。父が死んだ時、東京の事務所の引き出しの中に、その広告の切り抜きがあった。うちの父は半村良さんのファンで、「お前、女を書かなきゃだめだ」とか言っていた(笑)。全然ぼくの小説を認めていないと思っていたら、認めていたのですね。

 伝奇ロマンブームをつくったのは、半村さんと荒巻さんです。

荒巻 うちの父は、神田まで行ってぼくの本を500冊くらい買って、故郷の水戸でみんなに配ったらしい。それを、全然言わなかったですね。

 伝奇ロマンが出てきたところで、ディスカッションに移りたいと思います。今日は、幻想文学全般に詳しい小谷さんがおられるので、ぜひともまずご意見をうかがってみたいのですが。

小谷 荒巻先生の小説といえば、1970年代には、『時の葦舟』とか『白き日旅立てば不死』とか、幻想小説のイメージが強かったので、突然「空白シリーズ」を書き始めた時にはすごくびっくりしました。この大変化は、いったいどうして起きたのでしょうか。

荒巻 これはですね、祥伝社の伊賀さんが「ミステリーの光文社に対抗するために、新しい伝奇ミステリーをやりたい」と言ってきたのです。まず、半村さんが書き始めていたのですが、ぼくにも「何か書け」と。ぼくは新しいもの好きなので書きましたが、最初の作品には1年かかりました。今は絶版になっているので、いつかは電子化したいと思っています。

小谷 当時、伝奇を書いていたのは、半村さんと荒巻さん。平井和正さんも伝奇的要素が強い作品を書いていましたが、その後、笠井潔さんや夢枕獏さんも出てきました。

荒巻 新しいものを書くのは、面白いですね。ぼくの悪い癖で、なんでも書けちゃう。純粋にやっていたら、もっと別の世界があったかもしれない。

小谷 でも、荒巻さんの小説は、明らかに半村さんや笠井さん、平井さんとは違う雰囲気がありました。当時、伝奇マニアの人たちと話題になっていたのですが、伝奇小説って、ムー大陸が沈んだり、空飛ぶ円盤が出てきたり、正しい歴史とは違う「裏歴史」があるのが前提になっていますね。半村さんや笠井さんは、正史へのアンチテーゼという色がすごく強くて、それが一つの魅力だったと思います。荒巻さんの作品は、むしろディレッタンティズムが強いというか、そういう面白さがありました。

荒巻 その原点が、小樽の手宮古代文字です。これはいったいなんなの、っていう子供時代の不思議体験。それが、結局小説に出てきたのでしょう。

 伝奇小説を書き始めた時には、それまでとはまったく違う文体にしました。新書の文体は、また違うのです。実はね、佐賀潜(ミステリー作家)の『影の棲息者』という小説をごみ箱で拾ったのです(笑)。それを読んで、勉強した。言葉のリズムを徹底的に記憶して、身に付けました。文章は、リズムですからね。基本は5・7・5です。ぼくは「荒巻節」とか言われたけど、5・7・5のリズムを守ると、スムーズな文章を書けるのです。

小谷 本当に荒巻さんの伝奇は、すいすい読める。空飛ぶ円盤が出てきたり、古代キリスト教の話が日本列島で展開されたり、荒唐無稽と思いながらも、やめられませんでした。

荒巻 編集者が入れ知恵したのですよ。当時は、編集者が「こうしましょう」とか言って、こっちも「うん、こうしよう」と(笑)。今の若い編集者は、そういうことはないね。昔は、なんとか作家を育てようという意気込みがありました。ぼくは、銀座でお酒を飲ませてもらった最後の世代です。文壇バーという所に連れて行ってもらいました。

小谷 すごく不思議なのは、シュールレアリスムみたいな芸術的な部分と、大衆小説的な部分が、荒巻さんの中でどう両立しているんだろう、ということです。

荒巻 自分が面白い、面白いと言って書いていたのですが。でも、今はああいう(伝奇)小説みたいなのは書けません。力技なのです。強引に理屈をつけていくわけだから。

 ではここで、フランスから来て荒巻作品を研究して、評論家としてデビューし、今は京都の立命館大学で教鞭を執っておられるタヤンディエーさんからひとこと。

タヤンディエー 荒巻先生の作品のオリジナリティーの面で言いますと、先ほど話に出た4次元の世界に堤防を造る「時の波堤」(写真5-27)がありますね。

荒巻 ずいぶん苦労しました。

タヤンディエー 私が論じた「柔らかい時計」も、素晴らしい好奇心で、シュールレアリスム、精神分析、土木技術、それぞれの要素を集めて、最初から存在するジャンルでなく、自分で新しいジャンルをつくっています。「柔らかい時計」で扱っているのは、1931年に制作されたダリの「記憶の固執」ですね。

荒巻 ダリの「記憶の固執」を画集で見て、「この時計は食べられるかもしれない」と思いました。実は、あの舞台は火星にしましたが、まあ、火星はたまたまあの星に付けた名前なのです。それからは心理学の知識で、飽食と拒食のエネルギーを衝突させたら、ダリが火星を食い尽くす衝動が止まるだろうと、そんな理屈をつけたのです。

 タヤンディエーさんは、もともとナノテクノロジーとSFの研究をしていく途上で、荒巻さんの『柔らかい時計』を知ったのですね。

タヤンディエー そうです。1968年発表の原型の「柔らかい時計」と、SFマガジンに掲載されたものと、『インターゾーン』に英訳されたものと、それぞれの変遷をたどり、ナノテクノロジーの視点で論じました。

荒巻 『柔らかい時計』の英訳が、カール・セーガンの目にとまってね。火星をテーマにした世界中の作品を集めたミニディスクに収録され、火星探査機の「フェニックス」に積まれて、無事火星の北極圏に着陸しました。地球が滅びても、ぼくの作品は火星に残る。当時は、そんなことは想像もつかないじゃないですか。それが実現すること自体がSFだよね。

 タヤンディエーさんのポイントのひとつは、1989年に『柔らかい時計』が英訳された時には、共同翻訳にあたったルイス・シャイナーの理念にもとづき「荒巻義雄をアメリカSFとしても世界に通用させる」ということで、ストーリーも一部変更されているという経緯です。今後、そういう各国語版におけるテクストの異同という問題も、国際的な研究の対象になるかもしれません。

荒巻 ひとつの作品がいろいろな価値観で評価されるのは、良い作品だからだと思います。タヤンディエーさんはナノテク、ルイス・シャイナーはサイバーパンクで解釈していますが、勝手に解釈していただいていい。

 この写真は、いつごろですか。

荒巻 神戸でのSF大会「シンコン」の時の写真ですね(写真5-28)。まだ痩せていましたね。

 左下が筒井康隆さん。真ん中が星新一さんで、豊田有恒さんもいる。

荒巻 眉村卓さんがいますね。森優さんがいて、田中光二がいて、高斎正さんがいて、太った人が小松左京さん。

 良い時代でしたね。さて、今日は札幌在住の作家の立原透耶さんにも来ていただいています。立原さんは、今日着物を着てこられましたが、その柄が今日の企画に極めて関わっているそうです。

立原 コートは時計柄なので「柔らかい時計」です(笑)。着物は迷彩柄なので「架空戦記」シリーズです。帯は骸骨柄なので、詩集の『骸骨半島』です(拍手)。裏地には、伝奇小説系のネタを仕込んでいます(写真5-29)

 立原さんは、ここのところ荒巻作品を集中的に読まれているそうですが。

立原 亡き父が、私の子供のころに「アトランティスが」「ムー大陸が」と語っていた人で、そんな本をたくさん借りて、難しかったのですがなんとなく記憶にあったんのです。今回、「もしかして、実家で読んだ本は…」と思って、母に「あるだけ送ってください」って頼んだら、やはり荒巻先生の本でした。父の原点であり、私の原点だったと改めて分かりました。面白いなと思ったのは、昔読んで「未来ってこんなものなのかな」と思ったことが、今は実現されている。作品の中で荒巻先生が、予言というか、予知という形で書かれていることが実現されているのはすごいですね。そういうアイデアが出るというのは、どういうことなのでしょうか。

荒巻 SF作家は、そもそも予言者なのですよ。小松左京さんなんかは、恐ろしいね。あの人こそ予言者だったんじゃないかな。最近、『進撃の巨人』というマンガがあるでしょう。これがなんで若い人に人気があるのかというと、若い人には何か予感があるのでは。今の日本の状況は安全だと思っていたら、何か正体不明のものが攻めてくるという予感が若い人に共通しているから、あの作品が売れたんじゃないかな。まあ、小説でも、コツは正体を明かさないことですね。ぼくの「ニセコ要塞」シリーズも、何か正体不明の飛行物体が飛んできてニセコを攻撃するという設定にして書きました。最後まで正体を明かさないで、読む人に考えさせるのも一つの手だと思います。

 今日は、タヤンディエーさんと同じく日本SF評論賞を受賞された藤元登四郎さんもいらして、会場の最前列におられます。せっかくですので、ひとことお願いします。

荒巻 藤元さんは宮崎県の都城に住む精神科のお医者さんです。高校生のころから僕のファンだったそうです。

藤元 すばらしいディスカッションを聞かせていただいて、感激しております。荒巻先生について話し出したら、私も止まらなくなります(笑)。やはり私が一番興味を持っているのは、先生が猛烈な速度で執筆されること。先生は「脳内テレビ」と言っておられますが、額の部分に画面が浮かんでくるという。そこのところを、ちょっとご教示いただければ…(写真5-30)

荒巻 人間の脳の中には記憶がいっぱいあって、それがネットワークになってイメージがわくのですが、「物語脳」というのがあると思う。どう批評されるとか、売れるだろうかとか、そんな抑制が完全に取れると(物語脳が)出てきました。額の所に、テレビジョンのディスプレイができる。最初は青い画面ですが、そのうち薄れて、光景が出てきて、人物が出てきて、話し出します。こちらは、それをただ写しているだけ。ぼくのパソコンは、1万語くらいの単語や文が記号で登録されていて、例えばカムチャツカには「ペトロパブロフスク・カムチャツキー」というとても長い名前の軍港がありますが、「PC」と打つと一発で出てくる。ほとんど考えるのと同じくらいの速度で、書ける仕掛けになっているのです。もうこうなると、ぼくの後ろの背後霊が書いているみたいな感じですね。藤元さんは脳科学の研究をされていますが、こういう人間の脳の状態ってあるわけですよね。

藤元 どんどん映像が浮かんでくるというのは、ドゥルーズの言う「文学機械」。荒巻先生の文学機械が、例えば歴史と結び付くと伝奇小説になるということでしょうか。では、そういうパワー、エネルギーがどこから来るのか、知りたいところです。

荒巻 エネルギーと言えば、ぼくはお肉が大好きだから(笑)。まあ、小説を書くのが一番楽しいのですね。小説を書くと、いろんな人生を体験できます。それが作家の醍醐味。主人公になりきるわけで、全能感がありますね。ミステリーの場合はきっちり割り切れなければいけないから難しいけど、SFはどういう結末になろうと知っちゃいない。どうにでもなる。それが脳にとってもいいのかな、とも思います。

 『道化師の蝶』で芥川賞を受賞した円城塔さんは、札幌出身で荒巻さんの高校の後輩です。彼はこのところ世界 SF大会の常連で一緒にパネルなどもやったのですが、そういう折に自己紹介で必ず「私はスペキュラティブ・フィクション(思弁小説)を書いている作家です」と明言するんですね。荒巻さんと円城さんとではきっかり 40歳ほどの隔たりがありますが、親子ほども世代が違うにもかかわらず、お2人とも日本における思弁小説をSFから試みているのが興味深い。

荒巻 円城塔さんの小説でお薦め作といえば『オブ・ザ・ベースボール』かな。これはとんでもない話だね。空の上から落ちて来る人をバットで打ち返す。びっくりしたね。

 荒巻さんは時代に先んじていたから、同時代で評価できた人はたぶん山野浩一さんと筒井康隆さんくらいしかいなかったでしょう。

荒巻 円城さんの芥川賞受賞は革命だね。10年前にはとても考えられない。

 その円城塔論を『SFファンジン』に発表して、今は荒巻義雄論も書いている安田圭一さんも会場におられます。何かひとことお願いします。

安田 私は、1972年に初めて荒巻先生とお会いしました。今回のパネル・ディスカッションを前に、改めて先生ご自身が代表作とされている『神聖代』を読み直して、私は勝手にゲーテの『ファウスト』と関係がありそうだという観点でとらえています。『神聖代』の原型になったのは、1970年にデビュー作の「大いなる正午」に続いて『SFマガジン』に掲載された「種子よ」という作品ですね(写真5-31)

荒巻 実は、『神聖代』のベースになっているのはインドです。カルカッタ博物館でスケッチしていたら、キュレーター(学芸員)らしき人が来て、「ついて来い」って言う。どこへ行くのかと思っていたら、オフィスらしき所で中国の古い山水画を見せられて、「これはどんな絵だ?」とか聞くわけ。どう答えたかも覚えていませんが、その時の埃っぽい博物館の印象が記憶にあった。感覚なのですね。埃っぽさとか、暑さとか、そういう感覚的なものが実はベースになっている。小説はみんなそう。言葉より先に感覚が出てこないと、小説に匂いや呼吸が出てこない。小説は、呼吸しなければだめなのです。

安田 「種子よ」と『神聖代』の舞台は、「大教皇国イジチュール」です。マラルメの詩に「イジチュール」が出てきますが、「種子よ」を発表された70年に「イジチュール」という名前を持ってきたのは、「大いなる正午」の「正午」と「イジチュール」の「真夜中」を対比させたのではないかと、勝手に思っていたのですが。

荒巻 これもいい加減な話なのですが、「イジチュール」という言葉の響きに反応しました。勘なのですね。作家って単語に反応するし、匂いとか温度とか埃とか、皮膚感覚にも反応する。それがベースになって、そこに物語を書きつけていく。そうしないと、文章の中に風が吹かない。

 ここでちょうど詩の話が出ましたが、荒巻さんは最近、第1詩集『骸骨半島』(写真5-32)で北海道新聞文学賞を受賞され、詩人としても評価されています。この詩集の作品にも、T・S・エリオット以降のモダニズムを経由した皮膚感覚が実によく表現されています。

荒巻 これも、全部取材しています。例えば「老人と飛行士」の舞台はアイスランドです。「艦隊シリーズ」の取材で、アイスランドの北極圏に行った時、小さなプロペラ機に乗って氷河の末端の滑走路に着陸した。そこから歩いて行くと、家があって老人が住んでいた。彼が「おれの製材所を見に来い」って言うので行くと、流れ着いた巨木が積んであった。そんな体験が詩のベースになっている。あとは脚色していますが(笑)、実感がないと詩も観念になっちゃう。この文学展の準備でなかなか時間が取れなくて書けなかったのですが、2回行ったインドのイメージを凝縮した第2詩集を、来年にも出そうかと計画しています。詩は難しいですけどね。

 この詩集の受賞が決まる少し前に、三浦さんの聞き書きで荒巻さんの自伝が北海道新聞に連載されて、それが『人生はSFだ』という本になりました(写真5-33)

荒巻 これは、三浦さんの仕掛けにぼくが乗ったのですが、実はここに書いていないこともいっぱいある。作家って、結構いろいろな経験をしているのですが、生きている人もいるし、まだ差し支えがあるので。

三浦 先生には5回インタビューしてまとめましたが、正直言って、かなりいろいろなお話を伺いました。書いてはまずい話もありますが、「おれが死んだら書いてもいい」と言われています(笑)

荒巻 人間関係が面倒くさくて、それでSFに来た。相手は宇宙人だから(笑)

 さて、これは昨年、日本SF大会に合わせて広島修道大学で行われた第2回国際SFシンポジウムの写真です(写真5-34)。私の隣がパット・マーフィーさん、その隣がパオロ・バチガルピさん。いずれもアメリカで注目されている作家です。荒巻さんをはさんで、作家の高野史緒さん、中国の作家・批評家の呉岩(ウー・イエン)さん、タヤンディエーさん。日本SF作家クラブの創設50周年を記念して開かれました。1回目は1970年に小松左京さんたちが開いたのですが、これはまさに荒巻さんがデビューされた年でした。今回の第2回国際SFシンポジウムでは、荒巻さんがみんなに活を入れるような発言をしてくれました。  さて、そろそろ終了の時間が迫ってきましたが、ここからは話し足りなかったことなどを。

小谷 荒巻さんは、とても精力的ですよね。作家の中には、生涯の一時期にしか書かない方もいらっしゃいますが、荒巻さんはデビューしてからずっと書き続けておられますね。

荒巻 作家意識よりも、SFファンという意識が強いかもしれない。

タヤンディエー また好奇心の話ですが、先ほどの脳の話とか、先生はいろいろなことに興味を持っておられて、そこが素晴らしいなと思っています。

荒巻 これからは脳の時代ですよ。ヒッグス粒子の発見などで世界観が変わってきている時代に、人間の脳はこれからどこまで変わっていくのかな。3Dプリンターや情報ネットワークで世界も変わっていくけど、そういう中でも、人間関係は大切。日本SF作家クラブもそうだけど、専門的な知識を持った人たちとチームをつくると、いろいろなことができる。今回も、松橋さんという古い付き合いの建築家とその周りの人、映像の専門家とか、いろいろな人たちが集まってチームができて、こんなに面白い展覧会ができました。人脈は大事だね。

 荒巻さんの「ビッグ・ウォーズ」も、改めて読み直したら、「ニュー・ユートピア・シティー」という都市型宇宙船を飛び立たせるための理論を、先日亡くなったハードSF研究所の金子隆一さんらに発注しておられます。発注というと、最近は佐村河内さんの名前が浮かびますが(笑)、荒巻さんの場合はちゃんと協力者の固有名詞を出している。コラボレーション(共同作業)ですね。クラークからギブスンまで、はたまた伊藤計劃と円城塔に至るまで、こうした共同作業が頻繁に行われているのも、 いわゆる主流文学では見られないSFというジャンルの特質ではないかと思うのです。

荒巻 純文学とは違いますね、SFは。

立原 いま、若い人が荒巻さんの作品を読もうとしても入手できないという状況は非常に残念です。もっとたくさん復刊されたり、電子化されたりしないのかと思います。

荒巻 それも、物理的制約があってね。昔の作品は、差別用語で引っ掛かかることがあって、直すのが大変ということもあります。出版社も、なかなか採算が取れないと言っていますね。

 ここで、会場の方で何か発言があれば。

荒巻 はい、高城高さん。高城さんは、ミステリーファンの方は知っていると思いますが、『新青年』でデビューされた…

高城 いや、『新青年』といえば戦前の話ですから(笑)。『宝石』です。ここにいらっしゃる方はご存じないと思いますが、ハードボイルドを書き始めたのは60年近く前です。それから10年くらい書いていて、その後ずっと書いていなかったのですが、4、5年前に東京創元社から『函館水上警察』という本を出しました。今日はぼくと同じ会社で仕事をしていた三浦さんから招かれたのでお邪魔しました。

 先ほど、展覧会場で荒巻さんの本を見せてもらいましたが、その中にジョイスの『フィネガンス・ウエイク』がありましたね。この小説は死と再生の循環の話だと思うのですが、荒巻さんの作品と何か関係があるのですか(写真5-35)

荒巻 おっしゃる通りです。あれはとんでもなく難解な本で、作品そのものははっきり言ってよく分かりません。実はプルーストも、持っているのにまだ読んでいないのですが(笑)、死ぬまでには読まなければと思っています。

 ほかにも、質問されたい方もおられると思いますが、ちょうど時間になりました。われわれも、いろいろな視点を出すことができたと思います。2時間に及んだパネル・ディスカッション「荒巻SFの原点を語る」、これでお開きにしたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

三浦 荒巻先生、パネリストの皆さん、どうもありがとうございました。事前に予告した通り、この後、荒巻先生のサイン会をこの場で開きたいと思います。おひとり1冊ですが、ご希望の方はこの場にお並びいただければと思います。それから、この後、ゲスト、関係者で打ち上げを計画しておりますが、申し込まれておられる方はサイン会終了後、午後4時半ごろにここを出発したいと思いますのでお待ちくださいませ。よろしくお願いします。

 本日は雪の中、わざわざお越しくださいまして、ありがとうございました。これで、この企画を終了させていただきます。展覧会場をまだご覧になっておられない方は、ぜひ足をお運びください。また、「荒巻義雄の世界」展、これから3月23日まで続きます。周囲の方にも「面白かったよ」とお薦めいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。

(以上、パネル・ディスカッション要旨)

c 対談「SFにおける都市のイメージ」

「荒巻義雄の世界」展報告書

link

ページのトップへ戻る