8 「荒巻義雄の世界」展を終えて
「荒巻義雄の世界」展を終えて
実行委員、事務局長 瀬戸正昭
北海道立文学館の企画検討委員会に、「荒巻展」の話題が提出されたのは、2012年9月のことであった。文学館の平原前専務から、企画の打診を受けていた自分は、この件を荒巻さんに相談したところ、中野正一さんの未来都市のイラストを見せられ、それを委員会に提出したのである。いままでに例を見ない企画になると、直観した。
これが10月19日の企画委員会で通ったときはうれしかったが、会が終わって外に出たとたん、荒巻さんから自分の携帯に連絡が入り、「道新文学賞」受賞の知らせが入ったとき、これはまさに「天が味方している」と感じた。イベントの成功は、ここに約束されたのである。
荒巻さんから、建築家の松橋常世さん、中野さん、三浦さんを紹介され、実行委員会を立ち上げて、様々な立場の人々の協力を得るという、文学館の企画としては、過去に例を見ないスタイルが構築されていったのである。
ここで、年表風に実行委員会の動きを整理してみることにする。
2012. 9.21 文学館で企画検討委員会。
2012.10.19 文学館の企画会議を通過。
2012.11.29 荒巻先生の道新文学賞受賞式。グランドホテル。
2013. 1.25 文学館臨時理事会。
2013. 2.15 荒巻、松橋、瀬戸で文学館訪問。展示室の視察。
2013. 2.19 時計台文化会館で荒巻先生を交えて、企画会議開催。
2013. 6.19 第1回実行委員会で委員の初会合。
2013. 6.27 NPO法人「農・と・ぴあ」会報に荒巻展を初広報。
2013. 7. 2 第2回実行委員会開催。
2013. 7.24 文学館で荒巻展の打ち合わせ。
2013. 7.30 第3回実行委員会開催。
2013. 9.13 第4回実行委員会開催。
2013.11. 7 荒巻先生、札幌市芸術賞受賞。ニュー・オータニで授賞式。
2013.12. 2 荒巻展のチラシ出来。コピーは瀬戸、デザインは中野正一。
2013.12.13 第5回実行委員会開催。
2014. 2. 8 荒巻義雄の世界展開会式。マスコミ多数来場。
まだまだ書ききれないが、簡単に開会までの流れを記録しておいた。職業が異なる9名の実行委員が、この催しのために一丸となって頑張れたのは、ひとつは荒巻先生のカリスマ性であり、また文学館側の温かいご配慮があったことは、言うまでもない。
また委員のほかにも、札幌市以外でチラシまきを買って出てくれたファンの方々に、厚くお礼を申しあげたい。
「荒巻義雄の世界」展を振り返って
実行委員、事務局次長 松橋常世
北海道立文学館で44日間にわたり開催されていた「荒巻義雄の世界」展が無事終了した。企画や会場構成を担当した1人として、感想を述べてみたい。
遡ると、平成24年初めの私の「宇宙船原図展」、CGデザイナーの中野氏との出会い、一昨年、昨年の荒巻氏の度重なる受賞等、一連の事柄が申し合わせたように一つの流れとなり、文学館での企画展に向けて約1年半の準備もきわめて自然に進んだように思う。
私にとって所属する団体での経験も役立ち、たちまちのうちに会場計画の素案が浮かび、当初は開催への不安はなかった。しかし、時間が迫ってくるにつれ、企画側の人員だけでは乗り切れないことに気づき、私の有能な知人たちに強力な助っ人として参加してもらい、難局を乗り越えることができた。
その名も「チーム荒巻」。企画、運営上、誰一人として欠くことのできないエキスパート揃い。加えて文学館側の細かい配慮と支援をいただきながら、会場構成と運営が成立した。欲目は承知であるが、聞くところによると多くの来館者からの評判も良かったという。
振り返れば、この展覧会のポイントは、作家荒巻義雄の壮大な脳内宇宙を体感してもらうことを主眼として、会場構成に気を配ったことだ。小さな変更こそあれ、ほとんどが当初のイメージを損なってはいない。荒巻氏を初めに強く印象付けるべく、アプローチには大きなプロフィール写真、そして深遠なる空間に浮かぶ宇宙船の図面バナー、本人の書斎を最新のパノラマ映像として脳内宇宙を展開し、広大なジャンルを網羅している本人を表現する媒体とともに、構成のイメージを「文学」という既知の枠組みから解き放つべく、「読む」ことから「視る」という方向へシフトしたつもりである。
そんな中で、あらためて荒巻氏の「もの」や「コト」、そして時空を超えた概念や知識などの守備範囲の広大さや、尋常でない知的世界を知って、驚いたのは私だけではないだろう。文学館での開催時期がたまたま札幌では厳冬期、そして雪まつりというイベントと、世界的には冬季オリンピックという大行事にも阻まれながら、来場者数は文学館の企画展の中でも、かなりの上位に属するという嬉しい結果を聞くことができた。そして我々実行委員の1人1人が、場外でパフォーマンスをし、インターネットを駆使しながら伴走し、会期を盛り上げたことも、新しいスタイルを作ったのではと自負している。会場で2週ごとに企画を実施したことの意義も大きい。
約1年半余りの大事業ではあったが、「チーム荒巻」は存続し、また新しいスタートを切ることになるだろう。
「荒巻義雄の世界」展 ニュー・ユートピア・シティーCG制作後記
実行委員、事務局次長 中野正一
「私の名はハイパー・マグドナルド。地球歴325歳」。2013年8月、半年後に控えた「荒巻義雄の世界」展のチラシ制作依頼を受けて、メインヴィジュアルとして『ビッグ・ウォーズ』シリーズに登場する主人公ハイパー・マグドナルドを、CGで描くことにした。CG技術と文学をドッキングさせて、400年後の未来の都市や建築や人々の暮らしをリアルに再現、そしてなによりもドラマを表現しようとしたのである。
ここで、簡単にCGの作製法を解説すると、まず、コンピューターの中の空間にプログラムでできた模型を配置、それに色やマテリアルを加え、シーンを形成する。続いて、これに照明をあて、カメラで撮影という工程を踏む。実にリアルな都市や建築を再現できる。しかし、CGは技術であって、そこから観る人に強烈な印象を残すデザインは、なかなか生まれてこない。ところが、制作の過程で時々、CGプログラムという絶対的確実なものに偶然がからむことがある。
2012年5月、建築家の松橋常世氏が3月に開催したニュー・ユートピア・シティー展で、氏からいただいた設計図を基にCGを作った。
直径10km(札幌の新琴似から真駒内まで)、上部にはニューヨークのような都市があり、1000万人が暮らす。中央湖があり、湖畔には小型宇宙船の発着デッキを造る。そこに1人のサイボーグがたたずむ。この人物こそ地球をエイリアンの侵略から救ったハイパー・マグドナルドである。ハイパー・マグドナルドは、65年もの長い戦争の中で大活躍するが、傷つき、やがて体のほとんどの部分が、サイボーグ手術によって、皮膚感覚さえないものに変わってしまう。
設計図面というリアリティーと、文章から得たイメージを重ね合わせ、デザインした。しかも、観る側に(展覧会を)「観たい」という行動意欲を喚起させるべく、ハイパー・マグドナルドが語りかけているような演出でメッセージ性を持たせた。エイリアンの侵略に屈せず、人類数千万人と銀河を遊牧するハイパー・マグドナルドの視線の先には、明日が見えているかのように。
実は、今回、このデザインのポイントともいえる部分が、意外とスムーズに出てきた。後に、これは、荒巻義雄先生に出会い、先生の言動を見聞きし、作家としての姿勢に触れているうちに、自然と私の中にインプットされた先生(ハイパー・マグドナルド)そのものであったと気づいた。後に、先生に「このハイパー・マグドナルドは先生に似ていますよ」と言ったら、黙って笑っていらした。
2012年1月、先生から『ビッグ・ウォーズ』シリーズpart1『神鳴る永遠の回帰』第1版(かなり古めかしかった)をいただいた。ここから私は、観客の1人としてもっと続きを「観たい」という思いが自然につのり、後にCG数十点を一挙に描いた。
このイメージが周りの人の助けで展示ヴィジュアルになり、あるいはポスターとなっていったのは、まさに偶然が働いたせいかもしれない。
「荒巻義雄の世界」展を振り返って
実行委員 石川圭子
私が、北の大地から生み出された巨匠、荒巻義雄氏の展覧会に実働として関わり出したのは、2013年の11月からでした。
2013年の11月というのは、自分の中でも大きな転機で、偶然に出会った古民家を改修し、GalleryとしてOpenさせた時期と重なります。Openだけでも大変な時期なのに、北海道立文学館の展覧会準備と並行して行っていたので、無我夢中で、正直に言いますとあまり細かい事は憶えていないのです。
ただ、生まれたてのGalleryのオーナーが、老舗Galleryのオーナーである荒巻義雄氏の展覧会の会場を設営させていただいたり、広報や連動企画に携わらせていただいたりと、異例中の異例、且つ貴重な出来事を経験させてもらえた事に、ただただ感謝致しております。
近未来はこの様になるのでは? と、常に1歩も2歩も先を見据え、想像する荒巻先生の脳内宇宙は、どの様にして作られているのだろう。実際にお会いし話せば話すほど、どんな本を読み、どんな景色を見て、何に影響を受けていらっしゃったのだろう? と、荒巻ワールドに巻き込まれていき、好奇心を押さえるのが大変でした。
人類における過去の歴史を振り返ると、欲望の果てに環境汚染や民族紛争などを繰り返し、1度に何人もの命を奪うことのできる物質やウイルスが作り出されてきました。今現在、地球上で安心して暮らせる場所というのは、一体どの位あるのでしょうか? 一見、平和に暮らしているように見える今の生活が非常に脆く、案外あっさりと崩れてしまうものなのであろうと、私は思っています。
「ニュー・ユートピア・シティー」は、緻密に計算された理想郷。
人間の中の欲望がある限り、どの様に都市を形成しても欲望が、それを崩壊させるのではないか?
展示室に置かれた「クラインの壺」の前で、私はいつも、その様な事を考えていました。
「住まう」とは何か? 本当に幸せに暮らすという事は、どういう事なのか?
展覧会が終わった今でも、荒巻ワールドから受けた影響は、私の中に深く突き刺さっております。
おそらく、これから展開していくアート活動の中にも、大きく反映されていくことでしょう。
また、今後のチーム荒巻としての活動も、荒巻先生の発信するメッセージを、伝えていければと考えております。
多くの方々との出会いに感謝致します。
「荒巻義雄の世界」展を終えて
実行委員 木下泰男
北海道在住の日本SF界の重鎮のお1人である荒巻さんの特別展「荒巻義雄の世界」展は、2月8日から1カ月半、北海道立文学館で開催されたが、あっという間に終わった感が否めない。
終了間際、実行委員会事務局次長の松橋さんから、札幌時計台ギャラリーでの個展の依頼を受けたが、私1人では心もとなく、同じく事務局次長の中野さんにも協力願って、3月31日~4月5日の6日間、2人展を開いた。
自分自身にとっては、会場を満たす展示ができるかどうかで精一杯だった。準備不足は不徳の致すところで、お役に立てたかは分からない。急遽、25年前のポジを探し出した後、片付けが終わらないこともあって、余韻を引きずっていた。
ところで、思いもよらないこともあった。なぜか、札幌市環境局の方から「生物多様性」などについて協力の打診をいただいたり、今年7月開催予定の札幌国際芸術祭の事務局の方から、関係の方々のご紹介を受けたりした。
これも、「荒巻義雄の世界」展の成せるわざなのかもしれないと感じた。
そもそも、実行委員会への参加は偶然だった。松橋さんからの突然の電話で、「いろいろな人を紹介するから」と言われて、荒巻さんの対談イベントにそそくさと赴いた。イベントが終わって2次会へと流れて、実行委員の話が切り出され、松橋さんの策にあえなく陥落することとなった。実は、嬉しくもあったのだが…
集合がかかり、荒巻さんにお会いしてまず驚いたことは、情報の収集力。そして、お話にも感心させられた。今や、日本SF界の重鎮のお1人だが、その頭脳明晰さはお年を召されてもご健在で、記憶とお話は冴えわたっている。
若い時代へ思いを馳せると、近寄り難かったのではないだろうかと想像してみたりもする。作家・荒巻義雄のたどってきた道程からの発想力と想像・構想力は、執筆を通して、幼少期を過ごした小樽から、北海道、日本、世界各地、火星や銀河系宇宙にまで展開される。
作家・荒巻ワールドの活力は、もしかしたらその沸き立つ発想を自身で食しながら、無限に巨人化し続けているのかもしれない。今なお、その途上にあると思えるから驚かされる。実行委員会にかかわれたことで、作家・荒巻義雄の人となりに近づく貴重な時間をいただいたと思っている。
関係各位に感謝するとともに、荒巻さんのますますのご活躍に期待したい。
お疲れさまでした。
「荒巻義雄の世界」展を終えて
実行委員 中井孝二
きっかけは、以前からお世話になっている方からのお誘いでした。
「日本を代表する作家さんの展示会の手伝いをしてみませんか?」
即答で、ぜひ参加させてください、とお返ししていたのを覚えています。
今となっては、あの時の自分を褒めてあげたい。
実行委員に参加させていただいてからは、怒涛の打ち合わせと、制作ものでもはや記憶がかすんでいます。私は展示チームで会場内の什器を一部担当させていただいた程度でしたが、会場全体をディレクションされた松橋先生をはじめ、設計の相山さん、広告から展示内グラフィックまでデザインされた中野さん、さまざまの場面で人からものの手配まで先陣を切って調整された石川さん、展示内容の取りまとめからアウトプットまで調整された木下さん、展示の肝となった「鏡の間」を一手に引き受けられた平尾さん。
最終的に、とても素晴らしい会場へと仕上がりました。
また、今回の展示では画期的な試みも多くなされ、SFファンのみならずより広い層の関心を呼ぶものでした。振り返ってみると、「荒巻義雄の脳内をそのまま表現しよう」―そんな挑戦だったのかと思います。
同時開催された小学生の絵画コンクールも盛況で、表彰式で荒巻先生が保護者の方々へ「絵を描くことの大切さ」をお話しされたのも印象的でした。
荒巻先生曰く、「SFを書くためには物理学から建築学、考古学に哲学……さまざまの知識が必要」。この世界を解説するすべての学問や事象を知っていないと、書くことはできないのだということなのでしょう。
展示でも、その言葉通り、世界中を巡り収集した情報や品物、多岐分野にわたる参考文献、美術作品など、各学問や文明、歴史を独特の切り口で架橋している。そんな軌跡を垣間見るものとなりました。
まさに、荒巻先生の脳内を旅行するような感覚です。
今回、「荒巻義雄の世界」展に携わり一番勉強させていただいたことは、「無いものを創り出す為には、膨大な事実の裏づけが必要だということ」。
これから起こりうることを書き示すということは、過去の背景を極限まで読みとらなくてはならないということでした。
普段、主にデザイン業を生業とする私にとっては、目の覚めるような新鮮な衝撃をたくさんいただきながら、とても貴重な経験をさせていただいた数カ月間となりました。
「荒巻義雄の世界」展を終えて
実行委員 平尾稔幸
建築家の先輩である松橋さんからお話をいただき、実行委員に加えさせていただきました。荒巻先生には時計台ギャラリーでの建築展などで大いにお世話になり、また先生のSF小説をちょっとかじっていたりはしていたものの、私が何かお役にたてるのかどうかは半信半疑のままでした。
導入部門からメイン展示部門へのゲートとなる装置と、歴訪マップを担当させていただきました。ゲートについては、松橋さんの全体構想や実行委員の皆さんのお話などからアイデアをいただき、垂直万華鏡ともいうべき「鏡の間」を考案し、鏡の継目など施工的な制約はあったものの、概ね導入ポイントとしての意図を達成できました。
特に、焦点となる天井の点光源は、ピッタリはまるものが無く困っていたところ、荒巻先生から自宅にある気泡を含んだガラス玉でどうかと助け舟を出していただき、それを設置してみると見事に画竜点晴ともいうべき効果が発揮されました。
歴訪マップは実行委員の木下さんとの共作で、「大和三山イースター線」など荒巻ワールドを楽しみながらの作業となりました。下図となるマップの選択などで松原建装の斉藤映莉さんにはひとかたならぬお世話になりました。
お役に立てたのはごくごく一部に過ぎませんが、荒巻先生とのお話しの中で私自身興味のあったジル・ドゥルーズのリゾーム論など先生の広い見識からこぼれ落ちる様々な話題に興味が尽きなかったことと、多彩な実行委員の方々との触れ合いもとても楽しいものでした。
普段の仕事のなかではなかなかこのような体験ができる機会はなく、久々に心地よい高揚感のなかで日々を過ごすことができました。
展示期間中にはシンポジウムやパネル・ディスカッションを拝聴し、SF界の重厚、深淵で、マニアックな側面をも知ることとなり、また懇親会においてはなかなかお話しできるチャンスのない作家の方々と同席でき、門外漢ながらいろいろな刺激を受けました。
本当にいい経験をさせていただき、荒巻先生はじめ、実行委員会事務局次長の松橋さんと委員の皆さんや文学館の方々、関係者の皆さんにとても感謝しています。
楽しく有意義な日々でした。ありがとうございました。
「荒巻義雄の世界」展を終えて
実行委員 三浦祐嗣
ほぼ8カ月間かかわった「荒巻義雄の世界」展が無事終わってからも、報告書の作成という締めくくりの仕事に追われるはめになりました。これも「イベントは報告書を出してこそ完結する」と大見えを切った手前、仕方がないことではありますが。
ただ、強がりに聞こえるかもしれませんが、報告書をまとめる作業を含めて、「荒巻義雄の世界」展は、わたしにとって実に楽しいイベントでありました。
理由はいくつもありますが、最大の理由は多くの出会いがあったことです。
多芸多才で、それぞれ有能な実行委員の皆さんをはじめ、パネル・ディスカッションにご参加くださった地元の新進作家、道内外のSFファン、そして北海道立文学館のスタッフの皆さん。この文学展がなければ、おそらくお会いすることのなかった方も多かったと思います。
そんな出会いは、わたしにとって大変大きな刺激になりました。そして、こんなに面白い人たちがいる札幌という街を見直すことにもなりました。
実行委員といっても、展示企画や会場設営に関してはまったくの門外漢。そちらは松橋さんはじめ専門家の皆さんにお任せして、わたしはもっぱら広報、図録の校正、関連イベントの企画・運営などを担当させていただきました。初めて経験した仕事でしたが、これまた楽しかったのです。
「荒巻義雄の世界」展は、さまざまの分野の専門家が、それぞれの能力を結集することで実現した稀有な文学展でした。このようなイベントに、わずかなりともかかわれたことを誇りに思います。
荒巻先生に初めてお目にかかったのは、たぶん高校生のときのこと。以来、40年以上の時を経た1昨年秋、先生の聞き書きをまとめた「私のなかの歴史」の連載が、わたしの新聞記者としての最後のまとまった仕事になりました。
そして、新聞社を退職してから最初の「仕事」が、「荒巻義雄の世界」展だったのです。これも、何かの縁でしょう。
だから、人生は面白い。
「荒巻義雄の世界」展を終えて
パノラマ写真撮影 横谷恵二
撮影機材を抱えて荒巻先生のご自宅に向かったのは、開幕まで3カ月を切った昨年の11月後半、そろそろ厚手のコートが恋しくなる季節であった。
この日は、展示に使う書斎のパノラマ写真の撮影日。大概、初めて伺う場所にはちょっと早めに到着し、周りの風景をブラブラと眺めてから待ち合わせ場所へ向かうことにしている。この日も20~30分、周辺を散策してから待ち合わせ場所へ向かうと、ちょうど松橋さん、木下さん、石川さんが建物から飛び出して来たところに出くわした。
その勢いに引き込まれるように合流し、荒巻邸へと向かう。広い敷地をウロウロしながら玄関へ。中へ入ると荒巻先生、そして奥様がニコニコと出迎えてくださった。なにせ国語の授業では立たされっぱなしの自分にとって、文学は苦手と言うか、まるでダメ夫(古っ)なのだ。しかし、お2人の笑顔でちょっぴり緊張していたココロも解れ、撮影はアレヨアレヨと快調に進んだのである。
こんな出会いから始まった「荒巻義雄の世界」展。途中、実行委員持ち回りのイベント企画に緊急参戦という予想外の展開もあり、なかなか充実した時間であった。
今、展示を振り返ってみると、「多様性」という言葉が頭に浮かぶ。まず、荒巻先生が多様性の塊のような人だ。その年齢からは想像できないほど、頭の回転が速くしなやか、そして、その興味の対象は広く深い。それは、展示内容を観れば一目瞭然だ。この展示を観て「彼の頭の中を開いて観てみたいよ」なんて人もいるだろうと? 実際の脳の断面写真(MRI)まで展示してある念の入れようである。
多様性ということからすると、この展示にかかわったメンバーもまさにそうだ。詩人、建築家、CGデザイナー、元新聞記者、古民家鑑定士、デザイナー等々。会期中、毎週のように古民家で繰り広げられた関連イベントは、いい意味でカオスへの誘いであった(笑)。そして今は、頭の中をハンドミキサーでかき回された後の沈殿を待っている状態のようである。沈殿したころには、脳のヒダにこびり付いたアカもスッキリと落ち、何か新しいアイデアが浮かんでくるかも? と、そんな気分なのだ。
現在、私のPC上には、展示最終日に撮った集合写真のパノラマが映され、それを観ながらこの原稿を書いている。撮影時には気がつかなかったが、今改めて観てみると、荒巻先生をはじめみなさんの表情に余裕のようなものが感じられる。
それは、この展示の達成感を、何よりも物語っているように思うのである
「荒巻義雄の世界」展を終えて
設計担当 相山隼也
北海道立文学館で開催された、44日間にわたる「荒巻義雄の世界」展。
長いようで、あっという間に終わってしまった展示を振り返って、会場の図面作成・イベント及び作業工程作成の補佐を担当した1人として感想を述べたいと思います。
荒巻氏の全てを表現する場となる会場の構成は、松橋の頭でイメージが既に出来上がっており、私の役割はそれらを空間の中にどう埋めて行くかが主でした。
膨大な資料を基に、従来の展示では見られないような動線経路や見せ方で、その壮大な世界観にどう引き込んでいくかに大変苦労しました。
その問題を解決する大きな力となってくれたのが、中野氏が作る宇宙船のCGパース展示、横谷氏のパノラマ映像などの動く書斎の展示でした。
これらが、ただ目で見るだけではなく五感全てを刺激する要素となり、文学館の方の協力も得て、観る者を飽きさせない素晴らしい空間を生み出したように思います。
また、「荒巻氏と松橋の対談」ではパワーポイントを使用したのですが、松橋のこだわりに沿い、かつ著作権問題をクリアする画像を探し出すのに大変苦労したことを覚えています。
この展示会では、本展以外にもさまざまのイベントがありましたので、1人の参加者としても大変勉強させて頂きました。
展示や作品、対談で聞く荒巻氏の世界は、絵画から漫画・アニメに至るまでの引き出しがとても豊富で、それらがこの世界観を創ってきたのだと感じられて、非常に面白かったです。
今回、44日間という期間の中で、フェイスブックなどSNSでの情報発信により当初予定していた目標も達成され、荒巻氏の創り出すSFの魅力を多くの方に見ていただくことができました。
この展示会を通じて、普段行っている設計という仕事とはまた別の視点でのものづくりや、人と人との出会いなど、さまざまの経験をさせていただきました。
「荒巻義雄の世界」展が、私の中でたくさんのきっかけとなったように、展覧会に来てくださった方々にも、何かのきっかけとなっていただければ幸いです。
大変貴重で有意義な体験を、ありがとうございました。